連載:ESRは“注文の多い”測定装置?(3)ESRの馴染みにくさ;一次微分線形と磁場変調 (modulation, MOD)

NMR、光吸収、IRなどのスペクトルあるいはHPLCやGCのクロマトグラムなど、我々が目にする“スペクトル”のほとんどは上あるいは下に凸の吸収型の線形を与えます。しかし、ESRスペクトルはベースラインを横切る奇異な線形を与えます。ESRスペクトルの“一次微分線形”は化学者にとって馴染みがなく、近寄りがたい気配を醸し出します。ESR装置が微分線形を採用するのは、スペクトル分解能を向上するためです。ESRキャビティーに組み込まれた磁場変調コイル(modulation coil)によって、試料には振動磁場(周波数は100KHzが一般的です)が作用します。そして、得られたESR信号を位相検波して微分線形を獲得しています(詳細はテキストを参照して下さい)。

ESRの測定条件の設定で観測者を最も悩ませるのが、磁場変調幅(modulation, MOD)の適切な設定です。MODはESRに独特の測定条件ですが、MODの設定値は一次微分線形の線幅、スペクトル分解能および検出感度と密接に関係しています。MODは磁場単位(mTあるいはgauss)で表され、多くのESR装置では概ね0.001 mTから2.0 mTの広い範囲でMODの設定が可能です。それは、様々な常磁性種のESR線幅(0.001 mTから1 mT)に対応するためです。ESR信号線幅に最適のMODを判断する技量を観測者に求めるのが、ESR測定で最も困難な条件設定です。

筆者は学生時代に炭化水素系ラジカル種の高分解能ESRスペクトルの観測に明け暮れていました。その頃は、闇雲にMODを小さく設定してシャープなESR信号を得ることを考えていました。その後に取り組んだFe(III)やCu(II)錯体のESR測定ではMODの設定に無頓着になり、常にMODは0.68 mTでした。線幅が狭い有機ラジカルの分解能はMOD設定で顕著に変化しますが、元々の線幅が広い遷移金属錯体のESR線形はMODに対して鈍感なのです。適切なMODを設定するには測定対象のESR線幅についての知識が必要なのです。これほど測定条件設定に“注文の多い”分光測定はESRの他にないと思います。

MODの最適値は実際のスペクトル線幅の1/2程度とされていますので、MODの目安として遷移金属イオンでは0.3〜0.8 mT、スピンアダクトでは0.1〜0.05 mT、高分解能スペクトルを得るには0.05 mT以下です。機会があれば、ご自身の測定対象を題材にしてMODを装置の最小値から最大値まで変えてESRスペクトルの線幅と強度を比較して下さい。MODと線幅および感度の関係が実感できます。なお、ESR信号強度を比較するにはMODの設定値を一定に保つ必要があります。ESR測定はMOD以外にも様々な注文をつけてきますので、引き続き拙稿で紹介しますが、

昔話ですが、ある有機化学系研究室のESR装置にはMODダイアル(昔はロータリースイッチでMODを設定していました)には赤いシールが貼ってありました。これは、MODダイアルに“触るべからず”のマークで、有機ラジカルのESR測定に適したMODに固定されていました。これはMODの最適化には経験が求められることを逆説的に意味しています。